ふるさとに
芸術・文化・伝統・風土を育む
小嶋さんは終戦後、信楽に移り住まれました。信楽でお父様は陶器やタイルを製造する会社で働かれ、焼き物の街の地域振興や活性化に苦慮されていました。そんなお父様の姿を見ているうちに「信楽でデザインの街づくりをするために学びに行こう」と京都の日吉ヶ丘高校美術コース図案課に行かれました。卒業後、お父様の職場で働く小嶋さんと、信楽焼に理想の『赤』を求め続ける、岡本太郎さんとの運命の出会いが待っていました。岡本さんは東京オリンピックの会場となる国立代々木体育館に、色とりどりの信楽焼の陶板モザイクで、手・足・眼などの人体をモチーフにレリーフ(壁画)を、大阪万博では太陽の塔の背後の『黒い太陽』を、小嶋さんを含む5人の若者達が寝食も忘れて夢中で、岡本さんのもとで制作されました。「20代の多感な時期に岡本太郎さんとの7年余りは、とても刺激的でスリリングな日々でした。一点物の大きなレリーフ(壁画)作りの毎日は、作品への情熱、デッサンや模型で具体的にイメージを伝える表現方法など、製作に必要なモノを身につけさせてもらえる最高の機会でした。本当に感謝しています」と話されます。
このプロジェクトを最後に、小嶋さんは信楽をあとにされます。「信楽を離れて違うものを、自分で何かを作ることに挑戦したかったんです。信楽の伝統と文化が重すぎたってのもありましたね」と小嶋さんは笑われます。布引焼の復刻と共に、デザインのある日常工芸品として、陶器テーブルスタンドを照明器具として製作されます。これが婦人雑誌に取上げられた途端に、爆発的に売れたそうです。「製作が追いつかないので、ロクロ物の色付け陶芸品でやりくりしました。これがきっかけで七採天目が始まったんです」と話されます。更に岡本太郎さんでの経験を活かして、公共施設や企業の壁面にレリーフを製作されます。なかでも八日市文化芸術会館の外壁に作られた作品は、迫力満点で今も存在感を示しています。
その後は今日まで布引焼の体系化に努められ、本来の緑釉はもとより、七採天目で豊かな色彩を楽しめる陶器を製作されます。「私は数々の出会いに恵まれました。縁を通じて人と付合い、影響される多くの人がいます。そんな人の出会いの一助となる陶器となる様に、とらわれることなく時代に合う布引焼に挑戦していきたいですね」と小嶋さん。
東近江市の芸術家の代表的な存在として活躍される小嶋さん。施設再生のために主宰される『追求の先に…美を拓くものたち展』も10回目を迎え、充実した各種の作家さんが美術展のにぎわいをつくります。小嶋さんに今後の構想をおたずねすると「そろそろ自分だけの、利己的な作品を作りたいな。苦しい時に作るのではなく、平和な時に自分で作り出せるものがあれば、最高に幸せやな。最後にまとめるのは、オーロラかな」と満面の笑顔で話されます。益々のご活躍をお祈りします。