KIRARI MACHINOHITO

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【画家】 眞野 康洸(まの やすひろ)

今回は彦根市千尋町にお住いの、日本画家の眞野康洸さんをご紹介します。

子供の頃お父さんの自転車のカゴに乗って、琵琶湖岸のスケッチについて行っていた眞野さんは、自然と絵を描くことが大好きな少年になっていました。趣味で絵を描いておられたお父さんは、職場の展覧会でも法務大臣賞をもらう程で、後年は司法書士会の周年紙の表紙を飾られる腕前だったとお聞きします。小学校では珍しく美術を教えるだけの先生がおられ、またお父さんとの交流があった事も幸いし、1年生からしっかりと絵を学ばれました。眞野さんはこの時すでに「絵を描く仕事に就けたらいいな」と思っておられたそうです。当然、中学も高校も美術部。「デッサンが基本だと持論の先生のもと、毎日木炭デッサンを描いていました。木炭を消すのに使う食パンを買いに行き、使わないパンの耳を食べるのが楽しみでした」と懐かしまれます。美大への進学を目指しデッサンに明け暮れていた3年生の夏、「鉛筆のタッチが面白いから日本画が良いのでは」とアドバイスを受け、お父さんも描かれていた日本画を目指し、木炭を鉛筆に変えられます。京都の美大に見事合格。卒業後、高校の美術教師として教鞭をとりながら、日本画を描き続けられます。

 

現代日本画の自由な創造を新たに目指す、新制作協会日本画部(現 創画会)の展覧会に出展されますが、出展準備に手間と時間がかかり過ぎるため一度きりで取りやめられます。「宅急便もない当時、厳重な木枠の梱包をして京都へ行くトラックに便乗するのですから待ち時間ばかり。不便な時代でしたね」と話されます。活動はもっぱら地元。県内各地の画廊や美術館に出展され、中でも地元の彦根市展には卒業後から出展されていて、無鑑査で現在まで出展され続けておられます。

 

風景画として今残っている風景も気になるらしいのですが、1990年頃から古い潰れかけた家を描かれるようになられます。「長年生活を共にした家族がやがてはなくなり、かつて活況だった家はポツンと残され廃屋となっていく。その姿に、人生の最後を迎える人間と同じように哀愁を感じるんです。風景画ではなく、建物を通して人間の人生そのものを描いています。無常な人生をよりリアルに表現するために、スケッチは悲哀漂う冬が多いんですよ。スケッチしてすぐ壊される家もありましたし、古い家が壊されるまでに後何件の家が描けるかな…」と眞野さん。四つ切の画用紙にデッサン4時間、着色2時間かけて原画となる水彩画を描かれ、そのスケッチをもとに30号(91㎝×73㎝)の日本画を描かれます。 自然と対峙し、様々な人との出会いや交流のできるスケッチの機会は、眞野さんにとって一番楽しいひと時だとか。「いつもの様にスケッチをしていると、私にコーヒーを出してくれたり、おもてなしして下さるおばあさんがいまして、そのおばあさんがスケッチを見て泣かれるんです。 聞けば旦那さんとの思い出が一杯詰まった家らしく、それらを思い出して胸が詰まるんですね。やっぱり家は家族の一員なんですよ」とある日のエピソードを話されます。

 

2006年から眞野さんは「自分の日本画が世界では、どの様に受け止められるだろうか」とオーストラリア、カナダなどへと、海外を視野に入れて活動を始められました。そしていよいよ2012年フランスはパリの美術館、その壁面を眞野さんの7作品( 30 号)が飾りました。

 

1890年以来ルーヴル美術館で、世界中から600人以上のアーティストが自分の作品を展示する毎年恒例の展示会『ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール(国立社会ファインアート) 』に写真審査の結果、出展が決定されたのでした。凄いですね、ビックリです。また、2013年からは、1667年以来フランス芸術家協会主催の、世界最古の歴史と伝統のある国際公募展『ル・サロン』に毎年出展され続けています。ここでの受賞は、国際作家の道への確実な手がかりとなるため、名誉ある賞を目指して多くの作家が挑戦していますから、いつかはMonsieur MANO の名前が、世界にとどろく日が来るかもしれませんね。その日が楽しみです。

 

眞野康洸  https://yasuhiro-mano.jimdofree.com/

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