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ありがとうマンが贈る 
〜心に残るありがとう〜 話

2025.06.03

「パパ、本当にありがとう」

先日、伊那食品工業の塚越寛顧問のお話を読み、社員の幸せを一番に思い形にすることが経営だ!と教わった時、今の自分に足らないものは何か・・・と考えました。脳裏に浮かんだ言葉が「素直さ」でした。素直さであることが、目の前・その先にある道に、光を照らすことになる!なんて感じました。その時、ふと思い出したエピソードがあり、素直に自分の想いのまま「読みたい!」という素直さ一途で、涙を流しながらがエピソードに浸りました。皆さんにも是非、シェアさせていただきます。では、始まり、始まり・・・。

「パパ、本当にありがとう」

俺が30歳のとき、一つ年下の女性と結婚した。今では、娘が三人と息子が一人。
長女は19歳、次女は17歳、三女が12歳。長男は10歳。
この話をすると、よく聞かれるのが――
「長女と次女は奥さんの連れ子?」
違う。そうじゃない。長女と次女は、俺と血がつながっている。けれど、俺の“子ども”ではないんだ。
俺には、三歳年上の姉がいた。姉は25歳で結婚し、二人の娘をもうけた。
しかし、義兄は夢ばかりを追いかける男で、職を転々とし続けた。
デザイナーだ、設計士だ、最終的には議員になると選挙に立候補までしたが、どれも失敗。借金も膨らみ、姉も必死に働いていた。
そんなある日。
深夜のコンビニのバイトを終えて帰る途中、姉夫婦は飲酒運転の車に追突された。
二人は、そのまま帰らぬ人となった。
結婚したばかりだった俺は、何も手につかず、ただ呆然とした。
『なんでこんなことが起きるんだ』
『神様なんていない』
そんなふうにしか考えられなかった。
5歳と3歳の姪たちが残された。
今後どうするか、家族で話し合いが始まった。俺の両親は、姉の苦労をよく知っていたから、「私たちが育てよう」と言ってくれた。けれど、義兄の家族は「お父さんはもう定年で収入もない」と難色を示した。
じゃあ、自分たちが引き取るかと言えば、それもはっきりとは言わない。
結局、俺は姪たちに聞いた。
「俺と一緒に住むか?」二人は、うなずいた。嫁に相談すると、こう言ってくれた。
「二人産んだと思えばいいよ」
裁判を起こすとまで言っていた義兄の家族も、「若くて、収入のある人が育てるなら」と納得してくれた。こうして、俺は突然、二人のパパになった。
姪たちは素直だったけど、「パパ」「ママ」と呼ぶことには抵抗があったらしい。
次女は比較的早く、嫁のことを「ママ」と呼ぶようになった。嫁はそれを聞いて、一人で泣いていた。
俺のことを「パパ」と呼び始めたのは、次女が小学校に入った頃だった。でも、長女はなかなか呼んでくれなかった。
「ママ」と呼ぶまでに、7年かかった。
そして俺は、ついに「パパ」とは呼ばれなかった。
それでも――高校生になった長女が、自分の夢を語るようになった。
「音大に行って、音楽の先生になりたい」
嫁が三者面談でその話を聞いたとき、俺はすぐにピンと来た。
姉は小さい頃からピアノを弾いていた。
長女も、三歳からピアノを習っていた。
――きっと、母の記憶を心の中で繋いでいたんだろう。
彼女は東京の音大を希望し、推薦を受け、この春、無事に合格した。
結局、俺は最後まで「パパ」と呼ばれることはなかった。彼女は、ずっと俺のあだ名で呼んでいた。
長女が東京に旅立つ日、俺は海外出張中だった。帰国すると、嫁から一通の手紙を渡された。長女が、家族全員に宛てて書いたものだった。
その手紙を読んで、俺は声を出して泣いた。

○○ちゃんへ
泣きながら、(次女の名前)と二人で○○ちゃんと暮らし出したのを、昨日のことのように覚えています。怒られてムカついたし、一緒に遊んでくれてすごく嬉しかったし、本当に感謝してます。ありがとう。
そんな私を東京の音大にまで出してくれて、本当に、本当にありがとう。
今まで以上に、言うこと聞いて、いい子になって帰ってきます。
最後に。
パパ、本当にありがとう。大好き。

……泣いた。どうしようもないくらいに。
「パパ」と呼ばれたのは、その手紙が初めてだった。けれどそれで十分だった。
ああ、俺も――お前のことが、大好きだよ。

涙が止まりません・・・
素直さが一番大切なんだって思えますよね。しょうもないことに意地を張ってみたり、プライドを誇示しようとすることなんて、小さいこと・・・・・。

自分らしく生きよう!相手のために一生懸命になって関わろう!そんな想いが素直さを創るのでしょうね。
byありがとうマン

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